历史的序幕

上世纪 80 年代,不仅拉开了日本性别战争的序幕,宅男和宅女之间的冲突在同人社区也被点燃。

另一个萝莉控浪潮诞生的原因,可能会让很多人想象不到:萝莉控是当时男性动漫迷对于同人界里主流腐女 Yaoi (男性同性爱)文化的对抗,吾妻日出夫等人在创立第一个萝莉控同人志时打出的口号就是「将 Yaoi 驱逐出 Comiket」。(Comiket 即日本最大同人展)

根据米泽嘉博证实,早期 Comiket 的游客有八成都是腐女子,当时最流行的是热门作品如《宇宙战舰大和号》里男性角色的腐向同人志。萝莉控题材在诞生后迅速蔓延开来,并迅速成为了男性御宅族抢占同人圈份额的重要武器。

关注者指出,有日本文艺评论家通过历史著作为十恶不赦的“宫崎勤”辩护。其实,他们更多是在为宅文化辩护。因为日本人通过不断实践,发现“儿童保护”只是一种借口,所以他们很快就意识到了“性别平等”是另一种借口。

大多数读者只关注漫画本身传达的正面内容,却忽略了作品观点的来源和所处的历史阶段。沉到历史现实里,我们会发现宫崎勤与二次元萝莉形象的强捆绑,有不可忽视的舆论战要素。


持久的舆论博弈

2006 年,讲谈社出版的评论杂志《メカビ》在封面就抛出舆论战口号:

男子は皆、オタク(男人都是御宅族)

所谓的文娱评论家,其实就是打舆论战的专家,也就是时下热门的KOL(关键意见领袖)。

日本知名漫画作者植芝理一经常在各类评论杂志上发声。在这一期《メカビ》中,他借助伦理学知识,通过现象对比,为男性御宅族文化的合理性进行辩护。

——话说回来,虽然本杂志的读者主要是御宅族,您对如今的御宅族群体怎么看呢?听说有些宅男会说“三次元的女生不行,我只爱二次元!”之类的。**

植芝理一:啊,我之前听过一个有趣的新闻。有个动物园养的信天翁,雌鸟全死了,只剩下一群小雄鸟。据说信天翁如果小时候没被教育“世界上存在雌性”,长大后就不会对真实的雌鸟产生性反应。于是动物园做了雌鸟模型,想教它们“这就是雌鸟”。

结果雄鸟们开始对着模型展开翅膀求爱,饲养员松了口气说“太好了”。但等他们把真雌鸟带来时,雄鸟却只对模型有反应。这新闻让人哭笑不得。

要是用鸟语翻译机,搞不好会听到雄鸟说“虚构的妹子多可爱啊,纸片人赛高!”(笑)。

所以,我不觉得男性御宅族有什么问题。我们年轻时虽然没“萌”这个词,但干的事儿其实差不多。不过要是沉迷到不工作之类的程度,那可能就有点问题了。

——話は変わりますけど、この雑誌は一応、オタクを対象読者に置いているんですが、今のオタクについてどう思いますか? オタクの中には「俺は三次元の女はダメだ、俺は二次元に走る!」って言ってる人もいるみたいですけど。

■ああ、こないだ面白いニュースを聞きましたよ。アホウドリを飼ってる動物園があるんですが、メスが全部亡くなっちゃって、ちっちゃいオスばっかりになっちゃったそうなんです。アホウドリって、小さいときに「女の子っていうのがこの世にはいるんだよ」っていう教育をしないと、大きくなってからちゃんと性的な反応をしないんだそうで。で、動物園の人がアホウドリのメスの模型を作って、これが女の子なんだよって教えてあげようとした。 そしたら翼を広げる求愛行動をしだしたから、「ああ、よかった」と安堵して本物のメスを連れてきたら、模型のメスにしか反応しなかった。これは困ったことだ、っていう半分笑うようなニュースだったんだけど。 でも鳥の声を翻訳する機械とかでやったら「いや、だって虚構の女の子可愛いじゃん、虚構の女の子萌え~」とかって言ってるかもしれない(笑)。だからオタクをけしからんとは思わない。僕らが若いころは「萌え」っていう言葉はなかったけど、やってることは特に変わんないから。でもあんまりはまりすぎて、……働かないとか、そういうのはどうでしょうね、って思うこともありますが。

——这是否说明虚构世界拥有只有虚构才能展现的魅力呢?

植芝理一: 江户川乱步曾在随笔中说过这样的话:自己即便遇到讨厌的事也懒洋洋的,碰上开心的事也不太会“哇!”地激动起来,平日里是个情绪平稳、起伏不大的人。

可一旦沉浸在故事或小说中,却会读到流泪感动,或是拍手叫好。他对虚构事物的反应异常强烈。若要定义“御宅族”,我觉得大概就是类似这样的人吧——比起日常现实,更容易对虚构事物产生过度的情感共鸣。江户川乱步的签名总写着“现世如梦,夜梦方真”。虽然如今的年轻御宅族未必知道这句话,但在我看来,御宅族的本质或许正是如此。

如今虽不常提了,但每当有人咨询“我丈夫明明结婚了却还看AV,该怎么办?”时,女权主义者总会说:“和真实的女性相处是非常麻烦的事。”他们认为,看AV之类的行为不过是在逃避现实,选择轻松的方式。

但现实中,不仅男性如此,有些女性即便结婚生子,仍在创作耽美同人志。按上述逻辑,难道她们也是在逃避面对面交往的麻烦吗?总觉得哪里不太对。

人脑实在了不起,想象力的部分截然不同。即使结婚生子,照样能若无其事地画萝莉漫画,两者并行不悖。所以我不愿简单地将虚构视为“偷懒”或“逃避”。对于御宅族,我并不想用“好”或“坏”去评判。

――虚構には虚構にしかない魅力もあるって事でしょうか。

■江戸川乱歩がエッセイかなんかでこんなこと言ってるんですよ。自分は嫌なことがあってもわりとへろっとしてるし、うれしいことがあっても、あんまり「わーっ」と感動することはない。だから普段はわりと平静な、感情の起伏の少ない人間なんだと。 でもなにか物語、小説とかそういうのにはすごく入れ込んじゃって、物語読んで涙流して感動したり、本を読みながら手を打って喜んだりしてしまう。虚構のものに対してはものすごく反応するんだと。オタクっていうのをどう定義するかって言ったら、僕は多分、それに近いんじゃないかなと思うんです。要するに、普段の日常より作り物みたいな方向に、非常に過剰に感動してしまう。江戸川乱歩のサインに必ず書いてあるのは、「現世は夢、夜の夢こそ真」。だから最近のオタクの人たちって知らないですけど、僕にとってはオタクって多分そういうものなんじやないのかなって思うんですが。 今はそうでもないけど、「結婚してるのに旦那がAV見るんですけどどうしたらいいでしょうか?」って相談事があると、フェミニズムの人が必ず言うんだよね。「ちゃんとした女と付き合うっていうのは非常に大変なことなんだ」と。要するに楽な方向に逃げるっていうのが、AVを見るとかそういうことにあたるんだと思うんだけど。 だけど、男だけじゃなくて、女も、結婚して夫もいて子供もいるのに、やおい同人誌を描いてる人っているじゃないですか。これはじゃあ、その論法でいくと、わざわざ対面してると面倒だからそういう方向に逃げてるということになるのかな? それは何か違うような気がして。 人間の脳ってやっぱりすごいから、想像とかイマジネーションの部分は違って、ちゃんと結婚して子供もいても、ロリコンマンガ描いてるだとか、両立するぐらい平気でやっちゃうような気がします。だから、あんまり虚構で楽をしているだとか、限定した考えはしないですね。オタクに対してプラスとかマイナスとか、僕は考えてないっていう感じです。


植芝理一的立场转变

“老日漫有很多LGBT元素”的说法,忽视了特定的历史条件和创作者的个人意志。

比方说,最初的植芝理一对 LGBT 群体持理解态度,可在《梦使者》的立场却转向批判。对同性文化的展示,已经从单纯的娱乐消费转向了批判性解构。

过去国内读者可能难以理解,如今应该能看明白了创作者的表达:

这种打着包容的旗号所推动的“去性别化”,最终会变成一场奴役他人的灵魂狩猎。

与之对应的是,植芝理一在《梦使者》为恋物情结进行了十分精彩的辩护:

如果你秉持“人是万物的尺度”的理念,那么就没有谁比谁更高等,没有谁能剥夺他人选择的正当性。以该故事为蓝本,植芝理一创作出在海外影响力极大的《谜样女友X》,并且仍然秉持了为男性御宅族辩护的立场。


关键问题

我之所以认为植芝理一的《梦使者》很精彩,关键就在等级制文化的批判:

同样是坚守拒绝出卖灵魂的底线,同样在宣扬热爱高于金钱。A元素被捧为美,B却被批丑?传播A被赞进步,传播B就被斥落后?

如果一个人拒绝批判等级文化,那么他就在享受着等级文化的好处。

我们经常可以听到“男性享受的不是女体,而是女体背后的等级制”这种说法。就像美国对别国的指控,往往都是他自己干了。一个指头指着别人,四根手指指着自己。

历史总是押着相同的韵脚。就像植芝理一所经历的那样,国人一开始也对女性与性少数群体抱有非常美好的幻想,但最终只会发现他们忘记了自己从何而来,不仅没有解放更多人,还试图成为“新的强者”,制造并且享用“下一批弱者”。

中国男性御宅族手上只有玩具,没有有效的武器与防具。如果拒绝掌握创作技能,拒绝积极的社会化,拒绝脱离原子化转向合作分工,就没办法在这场等级制文化的围剿里逃出生天,“男性文化为全社会服务,而不为男性服务”的历史就会继续循环。

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